新年が来ると、誰もが新たな抱負や目標を立てますが、現実の厳しい生活が始まると数週間から二、三ヶ月ですっかり忘れてしまう人がほとんどだと言われます。忘れないためにどうすべきでしょうか?一年先にこうなるようにという目標も大切ですが、それ以上に、毎日なすべき具体的行動目標を立て、日々ほんの数分でもそれを確認し続け、もう目標は達成しているのだ、すでに叶ったと確信し続けることの方がもっと重要ではないでしょうか。神を信じる私たちは聖書で、神と永遠のことを第一に求めなさいと教えられています。今年一年ばかりでなく生涯続ける生き方なので、命がけで覚え続けるものなのです。「第一のものを第一に」しているかどうか、私たちの心を探ってみましょう。
第一の質問は、聖書の神は本当に私やあなたの人生の王になっているでしょうか?「まず神の国と神の義を求めなさい。」(33a)「神の国」とは 神の主権的ご支配とその霊的祝福のことです。神は王であり, 助言者ではない!私たちの営みのあらゆる領域で神の御支配に従うかどうかで、神の国の実現が決まるのです。私たちは真剣に神の御心を日々求めているでしょうか。「求めなさい」というとき、常に求め続けなさいということです。主なる神さまが家庭でボスであり、王様になっているでしょうか。金銭面ではどうでしょうか。神や教会のためよりも、利己的利益を優先させていませんか?対人関係は?神の似姿に創造された者として偏見なしに人々を愛そうとしているでしょうか。時間は?神との時間、兄弟姉妹や求道者のための時間、家族のための意義ある時間、 そして自分のための時間を取っていますか。神の働きのために十分自分に与えられた賜物を生かしているでしょうか (ロマ12, 1コリ12、エペソ4)?
第二に、私たちは本当に神の義を求めようとしているでしょうか?聖書は誰一人義人はいないと宣言しています。神の前に義とされる、義と認められるとは、わたしたちの生まれつきの罪性からくる自分の人生でのあらゆる罪の思いと行為をキリストの十字架の贖いと復活の力を信じることによって赦され、罪に勝利することです(ロマ10:10;4:25)。この義認こそは神の国の本質なのです。更に信仰によって義とされると神の愛の御心の実践に導かれます。純粋な信仰は愛と善行となって表れるのです。「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17) そして義は正義をも含むので, 神の義を求めることは神の正義なるさばきを信じ期待することも含みます!初代教会の多くの信仰者は不正に扱われましたが, すべてを神に委ねたのです。
第三の質問は、私やあなたは、「神はあなたの必要を必ず満たしてくださる!」という約束を真剣に信じているでしょうか、です。「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。…」(マタイ6:33B,34) イエス様は25-32節で、自然界の動植物の例をとって、空の鳥, 野の花の如く, 心配せず, 神を天の父を信じなさいと教えられました。衣食住の心配をすることは異邦人(未信者)の生き方だとまで言われたのです。心配しても、誰も「自分のいのち(歳)を延ばす」ことはできない(身長を伸ばすとも理解可能)のです。「いのちとからだ」は究極的には、神と神のことばによって生かされるものなのです(4:4)。
御子イエス様がいのちをささげてくださった神の創造の冠が人間なのです。その尊さを覚えましょう!そして神を全面的に信頼しましょう! 日々あらゆる面で神の国と神の義を求めることを最優先していくとき, 聖書の神は私たちの衣食住の必要をすべて知り, 必ず満たしてくださることを確信し, 約束の実現を経験できるのです!
「明日のことまで心配しなくてよい」とありますが、もし明日を心配すると、今日なすべきことに集中できなくなり、今日の必要のために神を信じ告白すること、そして聖霊と聖書から今日の導きを求めて受けることを妨げてしまうのです。すなわち、神の国と神の義を求めなくしてしまうのです。父なる神様、良き羊飼いなるイエス様、力強い助け手なる聖霊が今日も明日も明後日も導き続けてくださるのです。
キリスト信仰者として次のような新年の決意をご一緒にしませんか?
1) 聖書の神を私の真の王、主とします。十字架・復活による神の義の道に従順に服従
します。神は今年のあらゆる必要を満たしてくださる, と信じます。
2) 日々の聖書の黙想と献身的祈りの中で、これらの決意を日々吟味し、すでに神様がこれらの目標を実現させてくださったと信じ続けます。